老婆心録
(教室の若い諸君のために)


序にかえて
私は本年、下記の日付を以て、満60才を迎えた。俗に言う還暦である。人生の暦が一廻り済んだということであろうが、2廻り目に入るための心構えを新たにするときと解すれば、また楽しいことだ。
これからの若い諸君に思いを致し、教室生活における私の願望を抜き書きしたのがこのメモである。“言はずもがな”のことかも知れないが、日常の生活規範は、小なりといえども大切でありたい。その積み重なりが大となる。老婆心の言葉を敢てする所以である。
この老婆心録を諸君に贈りながら、どこまで歩けるかわからないが、人生の第2ラウンドに進もうと思う。

1981年10月21日

九州大学医学部外科学第2教室
教授 井口  潔



はじめに


(1)研究心、企画心旺盛で、理想にもえているのが青年だ。
(2)全体の中の自分であることを忘れるな。
(3)良いと思って始めたことは絶対にやめないこと。やめないことが、半分は成就させることだ。
(4)進退の「けじめ」ははっきりさせよ。大は就職、開業等から、小は出張、出向、身分の昇任、勤務の異動に至るまで、上司に対しては、威儀を正して挨拶せよ。これで自分のおかれた立場が明確に自覚できる。
(5)上司から言いつけられたことには必ず復命、報告をせよ。すぐできることはよいが、暫く期間を要するときは、その旨を、またその経過を適宜、中間的に報告せよ。これらの実行によって、任務の遂行、整理が明確になる。
(6)上司から研究上のことなどで示唆を与えられたときなど、それについて報告、連絡をするべき内容かどうか迷うこともあろう。しかし、自分の意見等を早くまとめて、努めて報告等を密にせよ。そうすることによって、更に新たな示唆が得られ、益するところが多い。
(7)上司への復命、報告、連絡等は形式に拘る必要はない。電話、メモ等を適宜用いて、能率的にやれ。
(8)医局の諸係等の任務は雑用と思うな。「これだけは、この一年に立派に仕上げてみせる」という気慨でやれ。中途半端、受身の態度が、最も負担になる。
(9)仕事は、結果が良ければすべてがよい。不首尾に終わったことについて、動機、過程をいくら弁明しても、繰りごとに過ぎない。過ちを繰り返さないための反省は必要だが、弁解、弁明で自己を正当化しようとするな。
(10) 全体のために良いと考えられることは、適宜に上司に意見を述べよ。必要な意見具申をしないことも、怠慢の一つだ。

臨床研修に関して


(11) 何事も初めが大切だ。入局したら「これから九大第2外科の医局員だ」との誇りをもって、言葉、態度、すべて發刺、服装は清潔、清楚に、青年らしく生き生きとやれ。
(12) 回診の折の上司に対する説明は、前もって準備をしておけ。毎朝病棟に来たら、何はさておき、自分の担当患者の許にゆき、病状を確認し、異常の有無を詳さに把握せよ。自分に自信がないのに「生き生き」とした態度ができるわけがない。
(13) 重大な異常に気付いたら、直ちに、上司に状況を報告し、指示を仰ぐこと。「定期の回診」のときに報告すればよいと考えるのは誤りだ。予定の回診がなかったらどうするのか?外科医の判断と行動は、常に、「直ちに、速やかに」。周囲の状況に依存するな。
(14) 手術記事の記載等、必要なことはその日の中にまとめよ。止むを得ない場合でも、翌日中には必ず終了せよ。
(15) 患者、家族には「誠心、誠意」で接せよ。信頼関係の維持が医療の第一歩だ。
3S - Smile, Speed, Satisfaction(笑顔で、速やかに、そして満足感を与えるように)
(16) 救急処置のABCについては、いつでも立派にやれるように日頃から勉強しておけ。患者に急変がおこったときに、近くにいる医師は、誰であろうとも、即座に適切な処置がとれなければ駄目だ。患者、家族への信頼関係は、医療技術の具体性なしには出来ない。
(17) 疾病内容の患者への告知については慎重にせよ。とくに、悪性疾患の場合には、上級医の意見をよくきいて、充分に配慮せよ。
(18) 前医の批評は、いかに患者、家族から誘れても、軽々しく濫りにするものではない。
(19) 常に座右にメモを持ち、経験のたびに、書物を通じ、或は上司、先輩の意見をよくきいて、その知識を正確にせよ。
(20)適当な機会を積極的に求めて、経験症例などについて、論文を書け。昼は診療に没頭し、夜はその日を反省し、経験を分析、整理することは、最も立派な医師の生活態度である。積って一書を成せば、これに過ぎるものはない。

研究生活に関して


(21) 【研究室生活の特色】
研究室の生活の日常は、臨床研修とは異なる性格をもつ。臨床研修では自分の周囲が動いてゆくが、研究生活では自分が動かなければ、何も動かない。この意味で研究生活は、自分というもののすべてが試され、評価される場面であることを銘記せよ。
(22) 【上司との連絡】
研究指導の上司と密接に連絡を保て。時と場所とを問わず、実験計画、実験経過等、適宜適切に報告し、意見を求めよ。1ヶ月、2ヶ月と漫然と時間を空費するな。自他ともに大きな損失である。互いの接触が多ければ、それだけ、問題打開のチャンスは多くなる。
(23) 仕事のポイントを早く把め。そして突進せよ。
(24) 【チーム・ワーク】
仕事は、自分だけのものと思うな。多くの実験は相互の密接な協力なしにはできない。また、関係、関連の分野に、自分の得た情報、知識は適宜、適切に伝えよ。研究はチーム・ワークだ。
(25) 【学会発表】
仕事がある程度進行したら、関係学会に発表する計画をたてよ。学会出題の申込みをすることが、自分の仕事を進捗させる一つの方法だ。
(26) 【学会発表から論文作成】
学会発表で満足して、それを原著論文にまとめることを怠るな。論文執筆してみて、はじめてテーマの分析整理が不充分なことが判る。「言う」ことは易しく、「書く」ことは難しい。「100里を行く者、90里を以て半ばとす」と諺に言う。
(27)【論文の書き方】
発表に際しては次のことを明確にせよ。
a.何故にこの研究は行わなければならなかったか? 研究の必然性。
b.そのために行った研究方法
c.研究結果
d.考察一文献上における自己の立場
e.結論 何を自分は貢献したか?
(28) 【抄録のかき方】
学会(論文)抄録には、前項の諸点を、最も簡明に表現せよ。一度、文章ができたら、これ以上の簡潔、簡明、平易な表現はないかどうかを自問自答して、推敲の作業に入れ。専問外のものが読んでも、話の筋が理解できるものでなければならない。論文抄録は、通常、英文の場合で200語以内、和文の場合で800字程度が適当。
(29) 【論文執筆のコツ】
論文執筆の具体的な要領は、結論→結果→考察→実験方法→緒言の順序で書くこと。各項では次のことを明確にせよ。
  • 結論―この研究で何が明らかにされたか?
  • 研究結果―この結論を誘導するためのデータは何か?必要最小限の図、表を用意。
  • 考察―これについての文献、本研究の文献上の立場、自分のオリジナルはどこか等を明確にする。原著では、教育的記述は不要。文献に新しいものを充分に取り入れているか?
  • 研究方法に入るべきものが、結果の項に入ったり、考察に入るべきものを結果の中に記述するようなことは避けるべし。
  • 緒言―全体を見渡して、本研究が何故行われなければならなかったかの理由、必然性を記す。ここは、著者の学問貢献への願望と期待が盛られるところ。心に秘めたロマンが謙虚に顔をのぞかせる場面はここであり、執筆最後の楽しみである。
    考察の内容が充分に整理分析されないうちに、よい緒言が書けるはずがない。
    考察の内容と緒言のそれとは表裏一体の部分があるが、両者に重複があるのはよろしくない。
  • 最後に一言-緒言、考察はロマンに、方法、結果、結論は、冷徹、非情であれ。
(30) 【英文論文執筆の心構え】
原著は英文(欧文)で書くことを心懸けよ。英文論文の難しさは、語学にあるよりは、むしろ、語学以前にあることを銘記せよ。簡潔、簡明にして、それ以上の推敲の余地のない内容のものが、英文化されていなければ意味がない。内容の推敲未熟のままで英文になったものの修正処理は実に始末が悪い。まず、日本文で簡潔、簡明、清楚の論文を書いてみよ。それから英文だ!きれいな無駄のない日本文はそれなりに良いものだ。日本文の良さも楽しめないで何の英文ぞ!学問とは、どこまで事象を整理、簡略化できるかの労作の道程である。無駄を切り捨て、ピリッと引き締まったものに推敲せよ。「真理とは、単純、平易のものである。(マダム・キューリー)」
(31) 【論文執筆の蛇足】
同じ内容のものを和文と英文で書くことは慎しむべし。日本語の特殊性、実地医家への啓蒙等の面を考えると、ある程度、止むを得ない面もあるが、それにしても、和文、英文の内容は、ある程度異なるように整理しておくべきだ。図表が両者同一なることは不可。また、和文表題の英訳が英文のそれと同一であることは、混乱を招くことになるので、予め配慮されるべきだ。
(32) 【国際学会発表のコツ】
国際学会で外国語での発表の要領は、論文執筆のときと異なる。何でもすべて言わねばならぬと思うな。相手にこれだけは理解させたいと思うことを抽出して、それをいかに平易に判らせるかという技術を考えよ。スライド等も一眼でわかり易いように工夫せよ。与えられた時間で、余裕をもって述べるように準備せよ。必要に応じて、結論等は文章でスライドに出すのも一法だ。初心者は、発音等を専門家について練習をする位の努力は当然だ。

それから


(33) 【教育への立場】
一応のことをやりおおせたら、後輩、周囲を、必要に応じて、教育することに熱心であれ。自分の獲得したものを他に及ぼして、公益につくすことが、即ち教育。学位を取った後の指導、企画、管理こそ真の評価の決まるところと思え。
(34) 【不憤不啓、不俳不発】
「憤せざれば啓せず、俳せざれば発せず」とは孔子がその弟子に言った言葉という。発憤して挑みかかるような状態にならなければ、また、索しあぐねて、もう一歩という心の状態(俳)にならなければ、師(孔子)は弟子に何を言っても、真の啓発にはならないという意味。自分に与えられた仕事をやり遂げるためには、あらゆる有形無形のものを動員して打ちこむことが絶対に必要。スマートにやろうなどと思うな。上には上がある。かくして、激しくも、また切ない高揚の心の状態が、はじめて道を開かせる。“悟り”も、こういうものかも知れない。師から、“盗み取ろう”という位の気慨をもて。
(35)「師も弟子もない」というのが、一応のことをやり終えた人々同志の懐く心境だ。だが、一定の閾値をのり越えた人間でないと、この心境にはなれない。師が弟子に望む第一のことは、早くその閾値を越えてほしいということ。共通の気持ちで「真理」について語り合いたいということだ。
(36)小さくても、ささやかでも、珠玉の如きものにつくりあげたい。

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